◊由 緒◊
創立年月ならず、口伝によると垂仁天皇の御宇皇女倭姫命神器の御鎮座の地を定め給はんとし、太田命を御先導にて此地に御幸遊され40余日御逗留の後、更に御神託により伊勢度會五十鈴川の辺に移御し奉りしと、斯る如き伝承あるを以て御社殿は神倉造の特殊な古式社殿−板校造−であると言われてゐる。遠江國風土記伝によれば、式内英多神社に推当し、「三ケ日村神明社なり、社頭は神倉造なり、神衣を納め置く、天羽槌雄命社、棚機姫社を併せ建つ、是は服部倭文氏の齋く祖神なり、神田の高42石、縣氏世々神主たり、云々」と。此地が伊勢皇大神宮の神戸として発展した爲に神宮との関係は神鳳抄等に現れてゐる。中古以来歴代将軍國守の崇敬亦淺からずして豊臣秀吉は禁制を掲げて武士の飢妨を禁じ、又社領を寄進した。徳川家康も亦社領として朱印地42石を寄進せられて明治に至った。明治5年郷社に列せられ、明治40年2月18日神饌幣帛料供進社に指定せらる。猶本社は往古より神服部氏が伊勢大廟に献れる御初生衣の御清祓所たりし所である。(静岡懸神社志原文)
神社入り口の社号標 「郷社 濱名総社神明宮」
一の鳥居(伊勢鳥居)
参道と参道脇の御神木
二の鳥居
手水舎
長い参道の先の社殿
拝殿
社務所
本殿入口
長い石段の上の本殿
写真撮影:2008年7月11日