◊由 緒◊
社傳によれば延暦20年坂上田村麿蝦夷征討の爲下向の際、天龍川満水差支への處、當所の人々新規に川船作つて、将軍を渡した。将軍之を喜び人民の爲に減水祈り、此地に闇?加美神を祀り給へり、時に河水涸れて洲を見るに至る。この洲を今洲と名づく、この洲より鹿始めて渡りたるを以て鹿原と言ひ(今鹿島と言ふ)又其川を鹿川と言ふた。今尚社傍の深潭を椎ヶ渕と言ふ、即ち鹿ケ渕の謂である、是より神名を猪家神社と言ひ、後俗に椎ヶ明神又椎ヶ脇明神と言ふた、椎ヶ脇は鹿ヶ脇の謂にて、古来纂天寵川流域の水利を守り、舟揖の安全を保ち堤塘の破潰を免れしめ給ふを以て、同川流域の大氏神と称し同川の難所又水害多き村落は悉く御分霊を奉祀せりと。徳川家康慶長7年4月廿日神領20石を寄進し、慶安元年8月17日徳川家光は20石の朱印状を寄せらる。天正19年地頭堀尾六左衛門尉社殿を寄進し、慶長7年11月堀重俊?領2反8畝を寄せ、大久保ヘ亦社殿造営費の寄進があった。明治6年3月郷社に列せられ、明治40年3月15日神饌幣帛料供進社に指定せらる。
境内に向かう階段と神号標 「式内 郷社 椎ヶ脇神社」
社務所
鳥居 「明神鳥居」 と 石燈籠
神額 「椎箇脇神社」
神 門
社殿に向かう参道
手水舎
拝 殿
写真撮影:2008年7月5日