◊由 緒◊
社伝によれば、当國の南海は所謂遠江灘にして波濤暴激通船無双の難所なるを以て、元正天皇御宇舎人親王右大臣藤原不比等公勅を奉じ遠江灘の鎮守として、養老年中に海岸に勧請し津毛利神社と号した。延喜式神名帳に所載の敷和郡津毛利神社是なりと定む。其後漸々海岸へ土砂を打寄置洲を爲すに依り土民追々開墾し殆ど村落46ケ村に及んだ。之によって中古當社を46所大明神と唱へ、右村々の惣鎮守と崇敬し、又遠江灘の鎮守とも称し、長上敷知二郡の境地に鎮座せりと言ふ。今舊長上分に属す。明治6年3月郷社に列し、同11年12月24日社号を復津毛利神社と改めた。社領は古来領主等の寄進を受け来つたが豊臣秀吉に至り80石の寄進を受け、徳川家慶に及び80石の朱印を受けて明治に及んだ。明治41年1月12日神饌幣帛料供進社に指定せらる。(静岡懸神社志原文)
神社入口 鳥居(明神鳥居)
神号標 「郷社 式内 津毛利神社」
手水舎
神 門
境 内
拝 殿
神額 「式内 津毛利神社」
本 殿
本殿前狛犬
社務所
境内社
写真撮影:2015年5月31日