◊由 緒◊
天武天皇御宇白鳳2癸酉年、豊受姫神伊勢國より渡御し給ふ。中島演表に白羽の箭降り立ち光を放つ、諸人怖れて近付くものなし、翌日海上光り渡り波浪競ひ来り御船と共に飛び上り箭と一所に納り給ふ。萬民奇異の想を爲すところ神託あらたかなり、我は是豊受之神なり永く鎮座の處は重ねて之を示すべしと宜給ひ、3日を経て農具の鎌と箭と共に当郷の原に納まり給ふ。依て此地を鎌田の里と言ふと社伝に見ゆ。御鎌田と申す田も今にあり、崇敬者の祈願御禮として鎌を今に献ずる例である。
旧御厨村17ケ村(鎌田御厨)の総鎮守にして今人之を嶋名神社と呼ぶ、初め中島村假屋に奉齋し後鎌田郷に遷し奉りしを以て中島村字假屋崎と伝ふ。
吾妻鏡巻二治承5年(合褒和2年の誤)5月16日の條に、老翁一人束帯を正し、笏を把り、営中に参入し、西廊に候す、僮僕二人之に從ふ。各々静衣を着し榊枝を捧ぐ(中略)老翁云ふ、是は豊受大神宮の禰宜爲保なり、而して遠江國鎌田の御厨は当宮領として延長年中より以降爲保数代相伝の處、安田三郎義定之を押領す、仔細を通ずと雖も許容せず、枉げて恩裁を蒙らんと欲す云々。此次いでを以て神宮勝事、古記に見る所を引いて委曲を述ぶ、武衛御仰信の余り、安田に問はるる能はず、直に御下文を賜ふ、則ち新藤吹俊長を以て御使として、爲保の使をして彼御厨を沙汰置くべきの由仰せ付けらる云々」とあり古来大神宮領たりし處應永年中の乱逆に残らす押領せられ、永禄天正の兵火に社殿等残らす炎焼し古来の古書類湮滅す。天正8年9月家康高力與左衛門清長に鎌田郷を賜ふとあり、この頃に至つて御厨領は廃したるか、然るを徳川家康天正17年に至り高百石の黒印状を附し、次いで慶長6年に朱印地に改められ、明治に及ぶ。天正の頃より大
河内氏の特別崇敬あり、横須賀藩主西尾氏の崇敬亦著し。明治6年9月12日村社に列せられ、明治12年7月縣社に昇格し、明治40年1月12日神饌幣帛料供進社に指定せらる。(静岡懸神社志 原文)
神社入口 一の鳥居(伊勢鳥居) 神号標 「鎌田神明宮」
社殿へ続く長い参道
二の鳥居
神社の森は静岡県自然百選 「神明の森」
神 門
交通安全神社
手水舎
社 殿
拝殿と神額 「鎌田神明宮」
幤 殿
本 殿
八幡社・稲荷社・奇(くし)神社
19摂社を祀る 合社(後御殿)
青麻大神(あおさおおかみ)
左 伊雑宮(いざわのみや) 右 塩釜神社
天照皇大神社
船魂大神(ふなたまのおおかみ)
祓所の四柱の大神
社務所
御神木
写真撮影:2008年7月24日