◊由 緒◊
延喜式神名帳に田方郡廣瀬神社とあり神階帳従一位廣瀬明神である、式社考証に「田方郡田京村深澤明神なるべし、其は伊豆志に深澤明神(田京村)溝?姫命、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)二神を祀る。田中郷5村の総鎮守にて、祠頗大也云々と、しかしてその社地の所在も極めて廣瀬の称に適へることにて、まづ狩野川の大川あり、東方よりは浮橋川流れ出で西南方よりは大澤川流れ出でて、社下に至りて狩野川に落合ふ処なれば、川幅廣くして廣瀬と云ふ称によく符へれば少しも疑なかるべし」と云へり。近古以来深澤神社と称せしを、明治28年5月18日復旧の許司を得て現社社号を称称す。抑々三島溝姫は三島の大神積羽八重事代主命の后神に座し、神武天皇の皇后姫蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)の御生母神に座せぱ、歴朝の御尊敬も篤く、文徳天皇以降清和天皇貞観年中に漸次御陞階ありて、遂に従一位の神階に陞せられ、古くは36人の禰宜及六坊の供僧を置き淳和天皇の天長年中三島大明神の神殿に擬し金銀を鎮めて造営し、北條時政巳来神領8町8反大50歩永80貫文を有せしも、天正18年3月豊臣秀吉,小田原北條氏を攻むるに当り、その兵焚に罹り、神寶古典等ことごとく焼燼(じん)し、且つ神領を失ふと雖年中75度の祭事を執行した。境内は老樹鬱蒼として清淨自から敬虚の念を起こさしめ、真に田中郷(田京、御門、守木、白山堂、宗光寺5村)総鎮守たるに相應する。寛永以後は僅かに除地4反8畝24歩を有するのみ、然れども修造費等は代官所の免許を禀(う)け、一國勧進して経営せし証今尚存す。明治6年8月郷社に列し、明治32年6月12日懸社に昇格、明治40年1月12日神饌幣帛料供進指定社となる。(静岡懸神社志原文)
神社入口
鳥居をくぐってすぐの所に狛犬
参 道
神 橋
二ノ鳥居
神馬像
境 内
社 殿
奥が本殿
社務所
手水舎
御神木(楠)
神輿庫
芸能殿
相撲の土俵
写真撮影:2020年5月11日