◊由 緒◊
社傳によれば式内己等乃麻知神社なりと言ふ。鎮座の年月詳ならず、大同2年坂上田村麻呂勅命を奉じて再興をなすと伝へ、叉源頼義奥羽征伐の砌、此地にて奇瑞ありしを以て帰京の後康平5年神殿を建立し、男山八幡宮を勧請し奉ると伝ふ。嘉祥3年7月從五位下、貞観2年正月27日正五位上の神位を賜ふ。降つて徳川時代社領百石余を附せられた。明治元年明治天皇御東行の砌神祇官植松少将勅使として参拝せらる。明治5年6月縣社に列せられ、明治40年1月12日神饌幣帛料供進社に指定さる。共所在については、古くより諸書に現れ源光行の海道記には「事のままと申社に参詣す杉の村立は三輪にあらすも尋ねても参らん、思ふことままにかなへば杉立る神のちかひのしるしとそ見む」とあり。阿佛尼の十六夜日記には「二十.途四日小夜の中山を越ゆ己登乃麻知とかやいふ社のほど道いと面白し」五條内府の歌枕名寄に「佐夜の中山の口なる任事と言ふ社にて」鴨長明「またもみむ吾ねき言のままならばしばし散すな木々の紅葉」などあるによりて、東海道古道と地勢とを併せ考へ決定すべきである。掛川誌稿に依れば「己等乃眞知神社舊社今の日坂八幡宮は式内事任神社なり、八幡宮と祥する事は何れの時よりなるか詳ならず(中略)さて事任社の舊社は此所より東古宮と呼ぶ所にありしが今の地に移りし後八幡と改めしなり(中略)古宮と言ふ所も本と宮村鴨方村の地なりしを寛永20年日坂伝馬屋敷となる」とあり。鴨方宇新坂にあて、叉亀甲村字宮谷に当て二説あり、現社地諸説を合わせて適当なるものの如くである。(静岡懸神社志原文)
神社入口
神号標 「式内 事任八幡宮」 鳥居(明神鳥居)
境 内
社務所
手水舎
東入口鳥居
社 殿
拝 殿
奥が本殿
奉納された大笛
御神木(くす)
本殿の横に立つ 「事任八幡宮の大杉」
写真撮影:2008年7月21日