◊由 緒◊
本社は社地を始め相當の古社であるが古來下神社と称して、延喜式の何社に相當するかは未だに定まらない、或は伊志夫の神社に擬せられ、或は仲大歳神社に比定せられ、或は江奈の舶寄明神とせられ、或は寧ろ伊那上神社ならんとの説も出で、又は松崎下神社といふなど諸説紛々たるが今は伊那下神社と称して居る。社傳には社號の起因を建暦元年の文書に仁科庄松崎とあるに取りて、仁科(にしな)は西伊那の約にて、いなは新羅の帰化人人造船術に巧なる猪名部一族が來りて船舶の建造に從ひしを以て、その聚落をゐなというたが、いなと変じ港湾をいな湾と呼び、その湾の下方にあたる當社を伊那下神社と称したといふ。慶長五年彦坂九兵衛の神領附には、松崎上宮領十五石、下宮五石分を規定した。慶長十三年大久保長安は、上宮を仲神社に當て、その翌十四年に下宮には松崎大明神と銘した上宮と同型の燈寵を奉納して、両宮対等の待遇をなして居る。然るに正徳二年には上宮は既に伊那上宮と称したるも、その前年下宮は単に唐大明神と称して遷宮を行へるのみならず、その廿六年後の元文二年にも、なほ同名を襲用して居る。寛政年代に至りて豆州志稿が公にせられ叉江川坦庵が「伊那下」の額を奉った頃より伊那下神社と称するに至ったであらう。古代御鎮座の年代は不詳なれども唐大明神と称するにつきては,神功皇后新羅御征討の時、彼國人皇后の御船を守護し奉りて、長門豊浦に留り、後此の地に來りて住吉三神を鎭座するが爲であるといひ、或は叉海幸の多き地方より考へて、吉田家は彦火々出見尊なりと称し、或は彦火々出見尊を石火宮と称し、之に住吉三神を並べて爾輿(もろこし)明紳と称したなど諸説一定せず、そはともあれ、夙に源頼朝始め武家の崇敬も厚く種々の寄進があつた。神鏡二面の存在及當社に南豆第一といはれる大神像を藏すなど、??社(きゅうしゃ)なることが知られる。今漁船三艘の黒印を有す。明治六年九月村社に列し、昭和五年八月五日郷社に昇格し叉昭和五年十月二日神撰幣吊料供進社に指定せられた。(静岡懸神社志原文)
神社入口
神額 「伊那下」
社号標 裏には「郷社 伊那下神社」
参 道
社 殿
拝殿の神額 「伊那下」
本 殿
伊那下の七福神
松ア護国神社
舞 殿
社務所
手水舎
天然記念物の親子イチョウ
写真撮影:2020年5月25日