◊由 緒◊
延喜式神名帳所載に駿河國薦河郡丸子神社とあるは本社である。日本総國風土記に「薦河國鞠込神社、去来穗別天皇の御宇癸卯所祭金山彦命也、神貢百束」とあり。叉社記に崇神天皇の御宇國造に詔して丸子神社をこ地に奉鎮し給ひ、景行天皇当國御巡幸の時丸子神社國常立尊を祭り給へる由記している。村上天皇の天暦年間天下泰平を御所願あらせ給ひし時御太刀一口を奉納せられ、また建武2年脇谷義助勅命を蒙り鎌倉征討の砌、天暦の例に任せ行光作太刀一ロを寄進し戦勝の祈願丈を納められた。叉社記に文亀年間火災に罹り等で海内攪乱に際して社頭衰頽せりとあり、舊社地は沼津市、本、字堂敷免にありてこより八町四方の間に神樂冤、寶蔵、幟所、油冤、鳥居、禰宜後等の名称が今に存す。以て古く大社なりしことが想はれる。後天保2年10月社殿炎上により宿内浅.間神社の相殿となり、明治10年11月浅間神社再建の際二扉一社となつた。これより先明治元年10月7日明治天皇東京行幸の砌、勅使植松少將を差遣せられて御幣物及び玉串料を賜はる。明治6年駿東郡一郡の郷社に、翌年第一大匿67小區の郷社に、同12年7月22日縣社に列し、同40年4月11日神饌幣帛料供進社に指定された。降りて大正2年12月3日社殿焼失、沼津本濱に假社殿を造営し、同9年2月11日本殿を現在の地に造営し再び舊社地に鎮座するに至つた。以来拝殿其の他の建築に着手、同14年9月ことごとく竣工した。尚境内社は昭和9年12月竣工した。(静岡懸神社志原文)
神社入口 一の鳥居 神額 「丸子神社、浅間神社」 神号標も同じく
三の鳥居
境 内
手水舎
社 殿
拝殿 神額 「丸子・浅間神社」
社務所
写真撮影:2010年11月20日