◊由 緒◊
勧請の由来は、文武天皇皇子御座なきを以て、皇室深く紀州熊野三所権現へ御祈願あり、其御信仰成就に依り熊野大神の大幣帛を御船に遷し奉り、奥野院惟吉卿を勅使奉幣使として附属五伴の者随行にて東の方へ御船を流し其止まる所を社地と定むべき勅宣あり。即ち其止まる所一艘は遠江國城飼郡西大淵村の濱辺に、一艘は同郡雨垂村の洲崎に、一艘は同郡閤戸村海辺に着船す。第一の大幣帛を本宮と称し大淵村の内横須賀の地に奉じ、社號を三熊野神社と称へ、第二の大瞥帛を新宮と称し門屋村の内高松の地に奉じ、社號を高松神社と称へ、第三の大幣帛を那智と称し入山瀬村の内小笠に奉じ社號を小笠神社と称へ、三社共御遷座の時惟吉卿神官を奉仕す。高松神社神殿御造営成就は大寳元年9月にて、右惟吉卿は続て神官たりしが其卒するの後神霊を隠岐の権現と称して齋祀し其祠今猶門屋に現存する。社伝によれば源頼朝伊豆へ配流の節当社に祈誓する所あり後志を得るに及び梶原源太景季を代官として参拝せしめたりと言ふ。古来上下の崇敬深く、特に武門武将の信仰厚く、徳川時代は社領30石の朱印地を寄せらる。明治元年権現號廃止の命により從前の高松権現を高松神社と改称し明治6年3月郷社に列せられ、明治40年1月12日神饌幣帛料供進社に指定せらる。次いで大正13年9月13日縣社に昇格、同9月22目縣社としての神饌幣帛の供進指定を受く。(静岡懸神社志原文)
神社入口 神号標「懸社 高松神社」
一の鳥居(靖国鳥居) 社殿に続く参道
二の鳥居(伊勢鳥居)
階段を上がり振り返ると太平洋が広がる
拝 殿
神額 「高松神社」
宝物庫
手水舎
社務所
境内社
写真撮影:2006年7月11日