中瀬地区(北から大字上島、大字中瀬、大字豊保)には下表の通り5つの神社があり、古くから中瀬の土地や人々を守ってきました。
明治期には神社庁から初期・中期・後期にわたり「神社合祀令」が幾度も発令された。中瀬地区でも時代の流れに乗り、新しい中瀬文化の建設を望む気持ちが高まり、「まつり日統合」の寄り合いが各地で何度も行われたようであった。しかし、「改善開化」は「昔からあるものは大切にしよう」、「村の神社を無くしてはならない」、「保存々々」の中瀬村民の声が強く実現することはなかった。
※神社合祀・・・神社の数を減らし、残った神社に経費を集中させることで一定基準の設備・財産を備えさせ、神社の威厳を保さ
せ神社の継続的経営を確立させること。
祭典は稲荷神社以外はすべて10月に秋祭り(稲作がほとんど行われていない中瀬では収穫祭ではないと思う)として行われていた。その後、昭和50年代に入り神社の統合はなされないが、津島神社、天神社、若宮神社の祭典は8月に行われるようになった。
祭典月日 | 祭典神社 | 所属町内会 | 氏子 |
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8月28日29日 | 稲荷神社 | 四 区 | 西中瀬、豊保、横瀬 |
10月12日13日 | 若宮神社 | 七 区 | 六区、七区 |
10月17日18日 | 諏訪神社 | 一 区 | 上島 |
10月19日20日 | 天神社 | 五 区 | 上島を除く中瀬地区全体 |
10月21日22日 | 津島神社 | 三 区 | 上中瀬地区 |
10月23日24日 | 八方地蔵尊 | 六 区 | 下中瀬、遠方信者 |
昭和30年頃まで、岩田新之助一座(中瀬四区:岩崎新一の父)が友情出演の梅村静枝と田舎芝居を行っていた。テレビも無い時代であったため、遠方からの見物人も多く、早くからお重箱にご馳走を詰め、すしを詰め、お酒を持ち場所を取り、夜中まで大変のにぎわいであった。また、大道(現在の屋台店)もたくさん集まり、年に数回しか物を買ってもらえない子どもたちにとってはお祭りは本当に待ち遠しいものであった。
芝居の翌日の朝は、早く起き芝居の桟敷の周りや、店の周りに落ちているお金を拾いに行ったものだ。5円、10円を拾うとうれしかった。芝居がなくなってから数年は、中部日本新聞社(現中日新聞社)による映画が行われた。その後、昭和48年までは何も無い寂しい祭典が続いた。
天神社の祭典は何も無く、同じ浜北市でも宮口地区、根堅地区、於路地区などでは昔から屋台の引き回しが行われ、祭典当日には神社はたくさんの露天商(現在の屋台店)とあちらこちらから祭り見物に訪れた大勢の人でにぎわっていた。「天神社のお祭りもこんなふうに」と言う声が地元にも出てきた。
その頃、地元の若者二人が2、3年前からあちこちを歩き中古の屋台を探していた。
ある日、遠州鉄道西ケ崎駅の東を通った時、ある家の前にシートを掛けられた屋台が置いてあるのを見て早速二人でその家に伺い、譲っていただけないかと話をしたところ、西ケ崎でも屋台の引き回しを行いたいと、貴布祢より中古屋台を譲っていただいたとの事で譲ってもらうことはできなかった。
昭和49年8月地元ソフトボールクラブ(四塔倶楽部)と遠州大念仏保存会(西中瀬組)の有志により、「とりあえず御神輿でも作ってみよう」と言うことになった。
早速、町内にある建設会社の作業場と道具を借り、日曜日と平日の夜仕事を終えてから集まり御神輿作りに取りかかった。
やがて御神輿が出来上がったものの組織の名前が決まっておらず、いろいろの名前を出し合った結果、この地区は昔から西中瀬と呼ばれていたので普通は「西中瀬組」となるのであるが「西中瀬組」では地元の遠州大念仏組織と同じ名前になってしまう。それではということで、「西中瀬連」→「西中連」となり、中瀬で最初のお祭り組織「西中連」の誕生となった。
中瀬で最初に作られた御神輿
昭和49年10月19日 (祭典当日)宵祭りの始まる1時間前。
御神輿製作者一同で御神輿を担ぎ天神社へ、宮司、年番、氏子の人々はびっくり仰天。この瞬間が『中瀬のまつり』を180度変えたその時であった。
夜は若連の家庭を御神輿を担いで回り、ご馳走をよばれ、ご祝儀をいただき夜を明かして祝った。
当日はあいにくの雨。だが雨は関係なし。一日目は気力と体力でがんばったが、二日目もまた雨。お神輿の重みが肩にずしりとくる。たまたま会員の中に、昔の大八車を持っている人がいて、それを借り、夜はこの大八車の上にお神輿を乗せ引き回した。
その夜の最後のみんなの言葉 『来年はきっと屋台を作るぞ!』