「潮干祭」は神前神社の祭礼で、その昔、祭神である神武天皇東征の折、海からこの地に上陸したとの伝説にちなみ、5輌の山車を潮干の浜へ曳き下ろしたことからこの名がつけられました。
祭りの起源は定かでは無く、最近の専門家による調査では各種史料によって元禄〜宝暦年間(17世紀末から18世紀前半頃)までその歴史を遡ることができ、以来今日まで300年もの長きにわたって祭りの風格・伝統がしっかりと受け継がれてきたことが明らかになりました。
昭和26年の潮干祭(間瀬伊造氏撮影)
山車は創建以来何度も総造り変えや修復を経て今日の姿になりましたが、現存する山車は、諏訪の名人立川和四郎冨昌や瀬川治助、新美常次郎(彫常)、竹内久一をはじめとする名工の手による精緻な彫刻や、岸駒・翠光ら有名画伯の下絵による豪華な幕類、螺鈿や堆朱・七宝焼を用いた四本柱などで装飾されています。また各山車の上では囃子にあわせて桜の枝を渡るなど、精巧なからくり人形が華麗に舞い踊ります。なかでも竹田からくりの生きた化石と言われている傀儡師は必見です。このように潮干祭の5輌の山車は、文化文政期以降幕末の爛熟した文化の粋を結集して造られたものといえます。
昭和41年に5輌の山車が愛知県有形民俗文化財に指定されたのをきっかけに、亀崎では潮干祭の文化的・歴史的価値を再評価する流れが生まれ、破損や紛失等で永く途絶えていたからくり人形の修復や復元が各山車組で相次いでなされ、現在では5輌すべての山車が前棚・上山の2種類のからくり人形を奉納しています。こうした中、平成18年に念願であった国の重要無形民俗文化財に指定されました。(亀崎潮干祭保存会・代参会 公式ホームページより)
ここが神前神社(旧県社)です。神倭磐余彦尊(神武天皇)が祀られています。明治の始めには亀崎神社と呼ばれていましたが、その後神前神社と改称されたそうです。
道路を挟んだ反対側の海岸に山車が降りていきます。 この道を尾張三社から山車が曳かれてきます。
東組 宮本車 建造 元治2年(1865) 装飾は、古事記を題材として神々や日本国の誕生等を表現しています。
石橋組 青龍車 建造 明治24年(1891) 一際目を引く紺羅紗地の大幕と七宝の前棚四本柱が特徴の青龍車
中切組 力神車 建造 文政9年 (1826) 諏訪の名工立川和四郎冨昌の彫刻「力神」の名を冠した力神車は、現在の5輌の山車の中で最も建造が古く知多型山車の元祖となるものだそうです。
田中組 神楽車 建造 天保8年 (1837) 上山からくり「傀儡師」は、江戸時代に一世を風靡した竹田からくりの稀少な残存例として「生きた化石」とも称されているそうです。
西組 花王車 建造 弘化3年 (1846) ギヤマンを使用した脇障子彫刻や、車座での演奏を表現するため後ろ向きに配置された壇箱の楽人など稀有な彫刻手法は必見です。 山車蔵を見つけることが出来ませんでした。
このまつりのクライマックス、山車の曳き下ろしです。どの山車もすごい勢いで海に向かっていき、水際すれすれのところで直角に梶を取り縦列場所に向かいます。あとの山車ほど水に近いところを曲がろうとするため勢い余り水中走行ということになります。梶を取るのは一番若い人たちのようですが、肩を真っ赤に腫らせて奮闘していました。
ここを山車が曳き下ろされてきます。海にはパトロール艇が待機しています。
山車が通る前に潮干狩りの穴を埋めて事故が起きないようにしています。
一番手の東組宮本車が5台揃うのを待っています。 5台が揃っていよいよ出発。
一番手はなんなく曳き下ろすことが出来ました。 この輪の跡のようにグググっと回っていきます。
2番手の石橋組青龍車です。山車がすごいスピードで駆け下りてきます。
順に整列して5台揃うのを待ちます。
3番手、中切組力神車です。
4番手、田中組神楽車です。とうとう海に入ってしまいました。
曳く人たちは胸まで入ってしまい大変なことです。
無事に曳き下ろしが終わり、これからすぐに神前神社の前に戻ります。
ここが最大の難関!5台ともここで苦労していました。梶を取る若い人たちは気合いを入れるために背中をバシッバシッと叩かれて可哀想なものでした。
西組花王車の猩々緋に雅楽楽器の金刺繍 田中組神楽車の猩々緋に牡丹に唐獅子の刺繍
石橋組青龍車の波上に勇む青龍の金刺繍 中切組力神車の猩々緋に虎の刺繍
素晴らしい彫刻や大幕です。