4月6,7,8日の三日間をかけて遠州地方では最も早い横須賀三熊野神社の大祭が盛大に行われました。
江戸時代の元禄年間(1690年頃)には既に踊りを主体とした祭りが存在していたようですが、現在の様式の原型が作られたのは、享保年間(1720年頃)、当時江戸幕府老中職にあった第14代横須賀城主 西尾隠岐守忠尚(にしおおきのかみただなお)公が、当時の江戸天下祭(神田・山王両祭礼)の祭り文化を横須賀の地へと伝えてからだといわれています。以来、子々孫々と受け継がれてきた280余年の伝統を誇る祭りです。
横須賀では、山車のことを「祢里」(ねり)と呼びます。この祢里の曳き廻しは神輿渡御のお供としての性格を持ち、各種神事の付け祭りとして発達してきました。この祢里の形態は「一本柱万度型」といわれ、江戸中期の天下祭を克明に描いた「神田明神祭礼絵巻」の中に、ほぼ同一のものが見られます。この形態を持つ山車は、発祥の地東京ではすでに姿を消し、現在ではこの横須賀地区とその近隣に残るのみで大変貴重なものです。
祭りの時、祢里の上で奏でられ祭りを盛り上げる三社祭礼囃子は、江戸中期の享保年間、横須賀城主 西尾隠岐守忠尚公が参勤交代の折りに、その御家人衆が習ったものが原型とされ、以後横須賀独自の調子が加えられ、今日の形となりました。
曲目は、大間(おおま)、屋台下(やたした)、馬鹿囃子(ばかばやし)の道中囃子三曲と、昇殿(しょうてん)、鎌倉(かまくら)、四丁目(しちょうめ)の三曲からなる役太鼓があります。
囃子道具として小太鼓2 、大太鼓1、すり金1、特一本調子の篠笛2が用いられます。また、この演奏にあわせて「ひょっとこ」「おかめ」の面をつけた手古舞(てこまい)がつきます。
三社祭礼囃子は、古い歴史とその比類のない名調子を認められ、昭和30年に静岡県指定無形文化財第1号に指定されました。(以上、掛川市HPより)
ここが三熊野神社。
文武天皇の皇后がご懐妊に際し、「安産にて皇子誕生せば、東に三つのお社を建て日夜お敬い申し上げる。」と神前に誓われ、その約束通りに、大宝元年(701年)、この地に熊野権現本宮を遷されたのが由来とのこと。それ以来子授け祈祷、安産、縁結びの神様として広く信仰されているところです。(シャトル工業株式会社HPより)
くじで決められた御輿の渡御に従う祢里の供奉順です。一から十三まであります。 境内に咲いていた緑の桜「御衣黄」
町中で見かけた祢里蔵と集合場所に向かうめ組の祢里。
横須賀では山車のことを祢里(ねり)と呼びます。この一本柱万燈型の山車は神田明神祭礼絵巻等に描かれている山車とほぼ同一のもので、いまではここ横須賀とその近郊に残っているだけとのことです。この万度のうえに各組が趣向を凝らしたダシが飾られます。
第一番 ち組 拾六軒町 ダシはおろち退治
第二番 か組 川原町 ダシは川中島
第三番 せ組 大工町 ダシは稲村ヶ崎 第四番 あ組 新屋町 ダシは神功皇后
第五番 ゑ組 軍全町 ダシは大森彦七
第六番 み組 西大渕 ダシは南総里見八犬伝
第七番 旭組 西新町 ダシは二見ヶ浦
第八番 ろ組 東本町 ダシは亀割り小僧 第九番 い組 西本町 ダシ太田道灌
第十番 め組 東新町 ダシは日の出に鶴 第十一番 た組 東田町 ダシは五条大橋
第十二番 は組 中本町 ダシは高砂
第十三番 に組 西田町 ダシは鞍馬山
祢里には先頭におかめ野ひょっとこ、小太鼓2人、大太鼓1人、笛2人が乗っています。
神輿の渡御のあとここで子授けの神事が行われます。 この川は西大谷川。普段は地下を水が流れています。
神輿が通り過ぎるまでは全員祢里から降りて被り物を取って正座しています。
ここの猿田彦は二本刃の下駄を履いていました。
白い紐を引き鈴を鳴らしていきます。
いろいろな人が参加しています。
豊作を祈り、農事の無事を祈る田遊びの行事を行う若者達です。