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天竜川と横川川が合流する辰野町には、たくさんのふち(淵)がある。どうどう(百々)、曲、羽場、同善などと呼ばれる
淵には、「かっぱ(河童)の綱引き」「柴太兵衛河童を捕まえること」「漆戸右門大蛇を殺す」といった伝説が語り継
がれてきた。今では知る人も少なくなり、何かのきっかけで文献などを調べ、初めて「へえ、こんな話があったの
か」という住民もいる。
伊那の伝説にある「河童の綱引き」は、昔の伊那富村に伝わる話だが、淵を特定することはできない。『川端に飼
い馬を放しておいたところ、川の中からかっぱが手を出し、馬の手綱をつかんで水の中に引き込もうとした。とこ
ろが、馬は動かず、かっぱは手綱を胴に巻きつけ、力いっぱい引っ張るが馬も必死になっている。
かっぱは馬に引きずられて、農家の表まで来て生け捕りにされてしまった。涙を流して命ごいするかっぱの姿に、
農民は哀れに思って川に返してやった。すると、朝になると農家の前にたくさんの川魚が並べられていたという。』
天竜川に流れ込む支流の中では、最も大きい三峰川が合流する伊那市。その流域に暮らす人々にとっての歴史は、
度重なる大洪水との闘いの歴史でもあった。
東春近村誌には、1736(天文元)年から1970(昭和45)年までの234年間に、天竜川(三峰川)で洪水が発生した年
数は208年、その回数は307回に上る。中でも1828(文政11)年の洪水は「ね子の満水」と呼ばれ、伊那市史には、
川手村(現同市美篶)から下流の六ケ村が流出したと記されている。
こうした水との闘いの中で、人々が神仏に願いを掛けたのは当然のことだった。川沿いには水神をまつった神社も
数多い。東春近車屋区六軒屋に残る「経塚」と呼ばれる小さな墳丘もまた、人々の水害除けの願いが込められた歴
史がある。
東春近村誌や車屋区誌などには、三峰川左岸の段丘に沿ってかつては四十八ケ所の経塚があったとされている。今
では明治以降の開墾や戦後のほ場整備で、ほとんどが姿を消し、わずかに二ケ所ほどその面影を伝えるだけで、最
近ではその存在さえも忘れ去られようとしている。
『経塚はその昔、水害除けを祈願して大般若経を転読し経を埋めた場所、と言い伝えられている。車屋区誌の編纂
委員長を務めた黒河内庄衛さん(80)は、「鎌倉時代末期から江戸時代にかけて、実際に水害除け祈願のために造ら
れたものではないか」と話す。
地元の車屋区では93年11月、今でも残る経塚に標柱を建てた。そこには、「文化六年(1809)、三峰川はんらん氾
濫し、上殿島地籍は大被害を受けた。住民は大般若経を転読し、祈祷を行い、経文を埋めた」と刻まれている。時
代の移り変わりの中で、忘れ去られようとしている「経塚」の存在を後世に伝えようとしている。』
佐久間ダムが完成する以前の天竜川は、「あばれ天竜」とも言われ、流れは岩をかみ砕くかと思うばかりに襲いかか
り、渦を巻き、大きな波頭を逆立てていました。
特に、天竜川の舟運盛んな頃、魔の淵ともいわれおそれられていた難所がありました。
『幕末から明治初期にかけて、南信州から北遠州の地方では大豆の栽培が盛んで、収穫された大豆は舟に積まれて、
二俣の問屋へと運ばれていました。
山あいの人々にとって大豆の販売は、厳しい生活の中で細々とした収入であっても貴重な財産であり、そうした人々
の大豆にかける願いがこめられて、舟は流れを下って行きました。
こうした舟の何そうかが、この難所にさしかかると腕利き船頭でも、日や時によって微妙に変化をする流れを避ける
ことができず、荒々しい波の中に積み荷もろとも転覆してしまうことがありました。
また、この名はこのあたりの天竜川の水面が渦を巻き、わき渦が大きな盛り上がりを見せており、この様子が豆を升
に盛り切って落ちかかるのと同じだとして、この名がつけられたとも言われています。』
南アルプスの深い山間を縫って流れる天竜川が、やがて平野部へ顔を出す辺りに天竜市二俣町鹿島がある。山間の
水を集めて勢いを増した流れが岸壁に激突して力強く渦を巻くふち淵こそ、伝説の舞台「しい椎がケわき脇の淵」
だ。
『椎ケ脇神社は岸壁上の森の中に今も残る。その昔、枝切りをしていた神主が、手を滑らせてナタを淵に落として
しまう。拾おうとしてのぞき込むと、深い淵中に引き込まれた。
目を覚ますと、そこは竜宮城。乙姫は他言してはならぬとクギを刺し、代わりに「欲しいものは何でも貸そう」と
話す。ところが、地上に帰った神主は約束を破り、文字が書けなくなってしまったという。』
しかし、「古い伝説は時代とともに変化した」と、同市文化財保護審議委員の元教諭太田裕治さん(66)=同市二俣
町=は指摘する。
神主が竜宮で出会ったのは乙姫ではなく、竜神だったと二百年前の古文書に記されているという。かつて同神社の
祭で「昇竜」の水墨画を観る習わしがあったことも、古い伝説の姿を裏付ける。
天竜川流域の伝承に詳しい画家の大庭祐輔さん(68)=静岡県竜洋町=は、竜蛇伝承が残る場所には、遠州から諏訪
湖へ水が通じているという「つうてい通底伝説」も伴っていることがあるという。
遠州に残る伝説は、天竜川を通じて深いつながりを持った「古い諏訪信仰へとたどり着くものも多い」と大庭さん
は強調する。
中瀬地区は天竜川沿岸の砂地に恵まれ、桑の生育に好適地であったため江戸末期から養蚕が盛んになり、生糸が日
本の主要な輸出品であったことから養蚕業は中瀬においては貴重な収入源でした。養蚕ははき立て(卵)から山あ
げ(繭)まで一カ月も家中を蚕だらけにし、「お蚕さま」と呼び大切に育てたものでした。蚕が繭になると8区に
あった県蚕糸(静岡県蚕糸株式会社)に荷車に山積みして運んだものでした。
中瀬地区は天竜川の川敷であったことから砂地のため稲作が出来なく、昔から麦、粟、黍、稗などの雑穀や里芋、大根、
ゴボウ、サツマイモ、その他蔬菜類が栽培され農家の換金作物として、畑作地帯の重要な収入源でありました。太平洋
戦争当時は食糧増産のためミカン園や桑畑も伐採されてサツマイモ等が植えらるほどでした。収穫されたサツマイモは
牛車や荷車に乗せられて出荷されたり自宅の保存庫に運ばれました。また、中瀬のサツマイモは味も大変良く宮内
庁に献上されたこともあるほどでした。
『今から三百年も前の話である。その頃の浜北市の東部、合併前の中瀬村のあたりは、天竜川に提防らしい提防がな
かったので、毎年夏となって、天竜川に洪水がある度に、提防が切れて、田畑も家も、流されてしまうのであった。
だからその度に、ここの人達は家を建て、田畑を開墾しなければならなか
それ程だから、その近くの民家、田、畑は勿論のこと流されてしまった。「大変な事になったなあ」村の人達は、お
寺よりも先ず自分の生活をと、田畑の整備にかかった。村に留兵衛という男があった。留兵衛の家は、定光寺よりは、
二百メートル程下流だったが、「畑を作って、早く大根を蒔かなけりゃ」と、萎と一諸に石河原となった畑の開墾に
働いた。そしてなるべく家に近い所、砂礫の少ないやりやすい所からと、手をつけていた。「大変だなあ、でも二反
出来たぞ」留兵衛はそうして、その出来た畑を見ては喜んだ。こうして毎年毎年、少しずつ開墾した。その間には又、
洪水でやられる事もあった。
そしてあれから十三年、留兵衛が毎日働いている或る日、地の下三〇センチ程のところに、カチンと当る大石があっ
た。「なんだろう・・…」
掘り出して見ると、それは石の地蔵きまであった。「あっ、お地蔵さまだ」留兵衛はびっくりして、土を払って、畑
の横にすえた。きっと、十三年前の大水で、定光寺にあった地蔵さまが、流されて来て埋っていたに違いはい。「十
三年も地の下で・・・、でもこのお地蔵様は、私の所に、さずかったのだから」留兵衛は妻と共に、毎日熱心にまつ
った。この話は、間もなく四方に伝わった。「十三年も、地の下に、有難いお地蔵さまに違いない。おまいりしよう」
参拝者は四方八方から集まって来た。それで、「八方地蔵さま」と名づけられて、今も参拝者が絶ゆる事がない。』
江戸時代に池田は、天竜川渡船の権利を独占していましたが、この特権には次の様な伝説があります。
『元亀3年(1572年)、徳川家康は一言坂の戦いで破れ、数人の家来を連れて池田まで来たが、 土地の人は戦場に
なることを恐れみんな逃げ去ったので一人も居ませんでした。家康はあちらこちらさがし回って竹薮の中にかくれて
いた、元紀州の浪人藪の内善右衛門を見つけて、是非天竜川を渡してくれと頼みました。渡船方の庄屋をしていた善
右衛門は気の毒に思い、船頭衆を10人程呼び集め西岸の半場まで無事に渡すと、家康が「ここは何と申すか」と聞い
たので、「半場と申します」と答えたところ「これから半場の姓を名乗れ」といわれたということです。
また、家康を西岸に渡してから、武田軍が追撃しては気の毒だということで舟を行興寺の西の池に沈め、櫓を天白
神社境内にあった池にかくし、後にそれぞれ「舟かくしの池」、「櫓かくしの池」というようになりました。この
ような事から、家康を助けた恩賞として天竜川渡船の特権を与えられたということです。』
河輪小学校がある河輪地区は、天竜川の最下流にあります。今のような堤防ができる前は大雨のたびに天竜川は洪水を
起こし、土砂を含んだ水が家を押し流し田畑を埋めて、河輪に住む人々をたいへん苦しめていました。そんな土地柄な
のでしょうか、天竜川の洪水から住民を守る「かっぱ」や「龍」にまつわる民話がいくつか残されています。その中か
ら、2つ紹介します。
『龍の化身である女性が人間の男性と結婚し、赤ちゃんを産むとき、部屋に閉じこもって夫に見ないように頼みました。
しかし、赤ちゃん見たさに約束を破った夫が見たものは、長い舌で龍の赤ちゃんをなめてうろこをとり、人間の肌にし
ている龍の姿でした。自分の姿を見られたことを恥じた龍は、夫に子どもを託し、天竜川に潜っていきました。そして、
夫と子どもの身を案じ、洪水を鎮めるよう力を尽くしました。』
掛塚は、長野県の諏訪湖を源とする天竜川の河口に位置し、天竜川と掛塚港によって古くから栄えた町です。掛塚港は、
江戸時代より主として、幕府の御用材、御用米の回漕をし、また、浜松藩、中泉代官所、旗本などの所領の年貢米等も
回漕していました。明治に入って一段と天竜川上流からの木材、諸物資の積み出しが盛んになり、掛塚は、掛塚港を中
継基地として江戸、大阪および各地の港町との交流が盛んになり、その文化を内陸部にもたらしました。また、遠州の
小江戸と言われ人々の暮らしを運んだ繁栄の港でもありました。
天竜川の上流は有名な天竜美林で、ひのきやすぎの建築材を東西の市場に送りだしていた.昭和のはじめ頃や戦争中は
未だ自動車交通は発達しておらず、道路も未開発であった。
したがって、山で切りだされた木材は川でいかだに組まれ,いがた師の手によって川を下り、鹿島か中ノ町の製材工場
に運び込まれて製材され、東西市場に送られたのである。
天竜川の上流には久根銅山や峯之沢鉱山などがあって、鉱石を運搬する舟(和舟)が天竜川を上下していた。これらの
舟は「帆かけ舟」で、風向きのよい時は風を利用して運行していたが、風向きが逆風の時や風のない時には、船頭のう
ち一人が長い綱で舟をひっぱり、他の船頭が舟をあやつって川をのぼったものである。