そんな中で上島地区でも屋台作りが始まった。我々の屋台の様な軽四輪のシャーシーではない。本格的な物である。内山組宮大工が製作をしている。
足回りは昔の牛車で舵は臼(うす)である。とてもかなうわけがない。しかし、我々の屋台はすべて会員の手で気持ちを込めて作られている。お粗末でも愛着がある。
上島地区の屋台も完成し、昭和51年10月3・4日の第一土・日曜に中瀬地区で最初の屋台曳き回しが行われた。
ちなみに、祭典の日は10月第一土・日曜日が上島、第二土・日曜日が津島神社、第三土・日曜日が天神社とそれぞれ別の日に行われていた。
中央が現在も使われている最初の屋台
昭和52年中瀬北部自治会(三区、八区)でも屋台製作の話が出てきた。自治会内での話し合いの結果、屋台は区ごと作り、曳き回す事になった。
両町内とも地元の大工が作ることになった。約300万円の製作費で両区ともほとんど同じような形・構造であり、すべてに歩調を合わせ、軽四のシャーシーを土台に製作。おもしろいことに両屋台ともハンドルはそのままの形で残し、丸いハンドルで舵を取っていた。なぜハンドルを取って、舵にしなかっただろうか?
屋根は大工が作っただけあって西中連・四塔連より、はるかに良いものであった。運営については十分検討をし、四区とは違って有志ではなく町内会で実施することとなった。名前は『さんくれん』、『はちくれん』と、ちょっとさえない。
完成した「さんくれん」の屋台
完成した「はちくれん」の屋台
昭和52年 二区でも屋台作りが始められた。名前は、『さんくれん』『はちくれん』に比べると粋な『揚十四連』、地元の大工らが中心となり若連との協力で作り上げた。一屯車のシャーシーを土台にしてある。三区、八区のオーソドックスな形に比べ少しノッポの変わった形である。揚十四連とは、中瀬の小字「揚見(あげみ」の十四班でスタートしたためである。
揚十四連(現二区連)の屋台
昭和52年、三区、八区が屋台を作り出した頃から、子供達がお囃子の練習やお祭りに参加しやすいよう、夏休みに例祭日を変えたらどうかという話が聞かれるようになった。中瀬の全町の代表が集まり度々会合がもたれ、中瀬地区全体にアンケート調査を実施して意見を聞くことになった。
その結果、8月第一土、日曜日と決まり、この年から天神社・津島神社の祭典の日が同じ日となった。しかし上島だけは道路が工事中であるため、屋台が通行出来ないので昨年同様10月とした。
六区子供会が中心となり地元の大工による屋台作りが始まった。牛車が土台となった一回り小さいが、まとまっている屋台である。名前は『六区子供会』太鼓は大念仏地蔵組の物を借りて使用したという。
完成した六区連最初の屋台
7区15班一同が団結し、見事作り上げたのがお神輿である。
祭典当日、天神社に「西中連」「四塔連」「六区連」「二区連」のそれぞれの屋台が揃った。その後、浜北音頭のメロディーに乗り「ワッショイ」「ワッショイ」と境内にお神輿を担いで入ってきたのが「横瀬東組」であった。
小人数であるが、班一同まとまり全員参加のお手本となるものであった。
7区15班だけで作られた御神輿
西中連が赤佐二区町内会(中沢組)の中古屋台を購入。屋台は中沢組にくる前は浜松祭りの砂山町で引回しをされていた。それを譲り受け、御殿屋台で屋根が高いので二層の上部を取り現在の一層に作り直したとのこと。中瀬には初めての本屋台であった。
五区町内会でも数年前より、有志が中心となり屋台の引回しを進めていたがなかなか思うようにならなかった。
ちょうど、西中連が於呂二区より中古屋台を購入し、最初の手作り屋台を五区町内会に寄附した為、話がとんとん拍子に進み昭和57年8月より屋台引回しに参加することとなった。
五区町内会も四塔連とおなじく氏子が天神社・津島神社と両社の為、土曜日、日曜日を一日づつ宮入りをおこなうようにした。
横瀬西組もミニ屋台をどこからか手に入れ曳き廻しを行った。会所は「みつば」北の農協の集荷場であった。
七区有志、中古屋台を購入し若宮連として引回しを始める。会所は七区公民若宮神社境内に置かれた。