■ 菅原(すがわら)車山 【新町】 ■
このやまは、別名「天神やま」とも呼ばれています。濃尾震災で焼失しますたが、大正3年(1914年)に再建され、2年後に曳やまをし、8年後には漆塗を行い、現在に至っています。
やまのからくりは、塩振り・文字書き・額持ちの3体で、文字書きは糸操りと間接扱いの併用ですが、種板を使わないのが特徴で、約2m離れた下から操作する人が筆柱を動かし、一筆で書き上げますが、大変な熟練を要します。
このやまの見送りは、大橋翆石画伯の筆による「虎」が描かれており、前水引は画伯には珍しいといわれている水墨画の「竜」が描かれています。
■ 松竹(しょうちく)車山 【伝馬町】 ■
このやまは、琵琶湖の景勝地である竹生島の弁財天を首座に配することで、別名「弁天やま」と呼ばれています。前に配した童女が、からくりによって舞う中に、人形の胴が割れて白兎に変じ、餅つきを始めて餅をまき、祭り客にふるまいます。
また、松竹やまは前部が躍り舞台となっており、子ども舞踊が演じられ、からくりと舞踊を塀用した唯一のやまです。
■ 猩々(しょうじょう)車山 【宮町】 ■
名を謡曲「猩々」から取ったものです。やまは二層で正面と両脇(一層と二層の間)に千匹猿の彫刻があり、一匹も同じ様相がないといわれています。
からくり芸は、二層のやま上に大床板(トイ)を突出し、先端に大酒壺を置き、猩々の人形が壺に顔を突っ込み、鯨飲すれば酔って紅顔となります。猩々はたちまち獅子に変わり、大酒壺は割れて大輪の牡丹の花が咲き乱れ、獅子はこれにたわむれ舞い狂います。
昭和20年7月、戦災で惜しくも焼失した先代の猩々やまが、平成13年3月に56年ぶりに見事に再建され、以降、大垣まつりに参加しています。
■ 玉の井(たまのい)車山 【船町】 ■
このやまは、初めは石曳やまで、大垣城の石垣を積む折、赤坂の金生山で採取した石を運ぶ車を改造し、やまにしたところからこう呼ばれました。
その後、江戸中期に石曳やまに変わって登場したのが、一層中壇の前やまに天女の人形を置き、二層のやまの屋形に彦火火出見命の人形を安置し、その前で赤面竜神人形が舞をするからくりやまでした。
しかし、文化12年(1815年)の大洪水で大破し、後に改造され、現在は少女の躍りを披露する善美を尽くした芸やまに変わり、舞台で子どもによる舞踊を披露し、観客の目を楽しませてくれてます。
■ 浦嶋(うらしま)車山 【俵町】 ■
屋形の中に浦島太郎、その前に乙姫・竜神・亀、前やまは唐子を配置し、謡曲は竜神に関するものを使い、 竜神が舞い、亀が泳いで、その背上の玉手箱を開くと蓬莱山が現れる仕組みです。
勾欄は朱塗の角形、水引前面の飛竜幕は高波の盛り上がり、下幕は金糸で紅羅紗に大波濤が刺繍してある本楽用のものと、試楽用に白地の幕があります。
屋形は竜宮上をかたどり半円を描くものであり、見送りの代わりに虎の皮を使用するなど、他のやまに類似しないのが浦嶋やまの特徴です。さらに後やまには登り龍の見事な彫刻をあしらう槍と幟があります。
昭和17年より人目に出ることはなく昭和20年に焼失しましたが、平成24年再建されました。