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岐阜県高山市 平成20年4月14日
♦♦  春の高山祭り(日枝神社)  ♦
 

 

■ 崑崗台(こんごうたい) 片原町 ■

沿革 創建年代未詳。安永三年(1774)の組内古記録があるが、文化四年(1807)には「花手まり」の名で曳行をしている。その後、「林和靖(りんなせい)」と改称の後、中国にある金銀の産地「崑崗(こんこう)」にちなみ、「崑崗台」と改称した。嘉永二年(1849)に大改造。昭和九〜十一年、昭和四十一年修理。
 嘉永改修 工匠 上野屋宗次
        塗師 島田屋小三郎
 構造 切破風屋根 四輪内板車

 特色 天保年間(1830〜1844)までは、中国の故事により、林和靖と唐子のからくり人形があった。棟両端の金幣、屋根上の宝珠は、「崑崗」が中国随一の金銀の産地であることに由来し、金塊をあらわしている。見送りは中国産の刺繍、寿老と鹿の図である。
 文書:「高山の文化財」(高山市教育委員会発行)より

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見送り幕 寿老と鹿
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■ 琴高臺(きんこうたい) 本町一丁目 ■

沿革 創建年代未詳。文化四年(1807)に「布袋(ほてい)の名で曳行した記録がある。文化十二年(1815)には飛騨の漢学者赤田臥牛(がぎゅう)が「支那列仙伝(しなれっせんでん)」から「琴高、赤鯉に座し来る」の故事を引いて現台名に改めた。天保九年(1838)に、組内に居住していた谷口与鹿が中心となり大改造。明治二十六年(1893)、昭和三十二年、昭和四十一年修理。
 天保改造 工匠 彫刻 谷口与鹿
        金具 伊勢屋治左衞門
        塗師 輪島屋儀兵衞
 構造 切破風屋根 四輪内板車

 特色 鯉魚と波浪を刺繍した大幕を用い、伊達柱(だてばしら)は黒塗地に鯉の滝昇りの大金具を打つ。欄間にも与鹿の鯉魚遊泳の彫刻があるなど、鯉づくしの意匠となっている。本見送りは徳川家十六代家達書の琴高仙人の詩、替見送りは垣内雲りん(かいとううんりん)の琴高仙人図である。
 文書:「高山の文化財」(高山市教育委員会発行)より

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替見送り幕 垣内雲りん(かいとううんりん)の琴高仙人図
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谷口与鹿作 欄間鯉魚遊泳
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鮮やかな鯉魚と波浪の刺繍
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■ 大国臺(だいこくたい) 上川原町 ■

沿革 寛政八年(1796)に創建され、日枝神社の宮寺松樹院にちなみ、「松樹(しょうじゅ)台」の名で曳行していた記録がある。寛政十一年(1799)、上二之町の現在の鳳凰臺組から大黒天像を譲り受けて「大国臺」と改称した。弘化四年(1847)に大改修。明治十六年(1883)、大正十三年、昭和三十九年に修理。
 弘化改修 工匠 石田春皐(しゅんこう)
 構造 切破風屋根 四輪内板車

 特色 構造上に工夫がこらされ、屋根棟と上段の縁が違う動きをして、しなう美しさを出している。祭神となっている大国天の人形はもとは腹中から七福神が舞い出るからくり人形であったという。毎年、くじによって決められる屋台曳行順で、この屋台の順位が若ければその年は米価が高く、その反対であれば安いという伝承がある。中段欄間の石田春皐作飛龍、下絵の土村英斎(どむらえいさい)作獅子の彫刻が引き立っている。
 文書:「高山の文化財」(高山市教育委員会発行)より

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■ 青龍臺(せいりゅうたい) 川原 ■

町沿革 創建年代未詳。明和三年(1766)に存在した記録がある。文化四年(1807)には、「道成寺(どうじょうじ)」の名で曳行しており、娘道成寺のからくりを演じたという。文化十二年(1815)に改修。天保三年(1832)、火災により焼失し、嘉永四年(1851)に再建した。この頃、台名も「青龍臺」と改めた。明治二十三年(1890)大改修。明治四十年、昭和三十年修理。
 明治修理 工匠 船坂栄蔵ほか
 構造 入母屋造屋根 四輪内板車

 特色 国主金森氏が、特に日枝神社を崇敬すること篤く、この屋台組が神社膝元の重要地区にあったことなどから、金森氏の代行として宮本(みやもと)と呼ばれて、家紋梅鉢を使用し祭事を主宰する特権を持っていた。これは明治二十四年(1891)に宮本が輪番制になるまで続いた。台形も三層で、天守閣型の屋根(入母屋造)となっており、他の屋台と趣を異にしている。
 文書:「高山の文化財」(高山市教育委員会発行)より

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