■ 神楽臺(かぐらたい) 上一之町上組 ■
沿革 古くから山王祭の神楽、獅子舞を主管し、初めの頃は白木のわくに太鼓をつって二人でかついだものであった。文化年間(1804〜1818)、四輪の屋台形にし、嘉永七年(1854)大改修により現台形となった。明治二十六年(1893)改修。その後数度の改修をする。
嘉永改修 工匠 谷口延儔(のぶとし)
彫刻 谷口与鹿(よろく)
構 造 屋根無 太鼓昇降 四輪外御所車
文書:「高山の文化財」(高山市教育委員会発行)より
侍烏帽子、素襖姿の五人の楽人を乗せて獅子舞を付随させ全屋台の先頭を進みます。曲は「場ならし」「高い山」など数多く(現存するもので32種類)あり、場所により使い分けています。 |
ちょっと一息! |
谷口与鹿(たにぐちよろく)作の竜と獅子 |
■ 三番叟(さんばそう) 上一之町中組 ■
沿革 宝歴年間(1751〜1764)の創建で、臺銘は「恩雀(おんじゃく)」、天明年間(1781〜1789)に翁操りを取り入れ「翁(おきな)臺」と改銘、文化三年(1806)に雛鶴(ひなずる)三番叟の謡曲による操り人形に替え、臺銘も三番叟となる。天保八年(1837)、現在の台形に改造され、大正七年と昭和四十一年に大修理を行なう。
天保改造 工匠 牧野屋忠三郎 彦三郎
構造 切破風屋根 四輪内板車
特色 二十五条の細綱で操るからくりがある。童形の三番叟人形が所作を演じつつ、機関(からくり)樋の先端へ移行した聯台(れんだい)上の扇子と鈴を持ち、面筥(めんばこ)に顔を伏せ、翁の面を被り、謡曲「浦島(うらしま)」に和して仕舞を演ずるという構成である。屋台曳行順のくじは、必ず「一番」を引くことになっていて、神楽台についで他の屋台に先行する慣例となっている。
文書:「高山の文化財」(高山市教育委員会発行)より
■ 麒麟臺(きりんたい) 上一之町下組 ■
沿革 創建年代未詳。天明四年(1784)の火災に焼失し、再建されたものが文化三年(1806)の記録に「鉄縄(かんなわ)」の名でみえる。翌文化四年「よしの静(しずか)」と改名し、文化十年(1813)、以前から組内に金森家から拝領した麒麟の香炉を保管していたことにより、「麒麟臺」と改名した。弘化二年(1845)大改修、大正十年改修。昭和四十六年修理。
弘化改修 工匠 中川吉兵衞
彫刻 下段唐子 谷口与鹿(よろく)
牡 丹 中川吉兵衞
塗師 輪島屋藤兵衞
大正改修 工匠 彫刻 村山群鳳(ぐんぽう)
塗師 田近卯之助(うのすけ)
構 造 切破風屋根 四輪外御所車
特色 台名の示す通り、屋根飾りとして一対の麒麟を載せ、中段、上段の木鼻の彫刻も麒麟の意匠となっている。下段の唐子群遊彫刻は谷口与鹿の作で神技といわれ、屋台彫刻中の逸品である。豪華絢爛の屋台である。
文書:「高山の文化財」(高山市教育委員会発行)より
見送り幕「中国北宋時代の故事」 |
名工谷口与鹿の彫物「唐子群遊」の「籠伏の鶏」(籠の中の鶏まで一本の木から掘り出すという、まさに神業)もっと見たい方はこちらへ |
犬(獅子?)をつなぐ鎖も彫られたもので、屋台が揺れると鎖も揺れます。 |
■ 石橋台(しゃっきょうたい) 上二之町上組、下神明町西組 ■
沿革 宝歴創建説と天明創建説がある。当初から長唄の石橋の操り人形があったため、台名もこれに由来する。弘化−嘉永年間(1844〜1855)に改修。文久三年(1863)大改修し、旧台を古川町に譲った。
文久改修 設計 村山勘四郎
工匠 畠中久造
彫刻 下段獅子 村山勘四郎
中段彫り龍 浅井一之(かずゆき)
牡丹 中川吉兵衞
構造 切破風屋根 四輪内板車
特色 からくり人形は長唄石橋物(しゃっきょうもの)のうち、「英執着獅子(はなぶさしゅうちゃくじし)」を取り入れたものである。濃艶(のうえん)な美女が踊っているうち、狂い獅子に変身し、また元の姿に戻り両手に牡丹の花を持って千秋万歳(せんしゅうばんぜい)と舞い納める構成である。明治二十五年(1892)に風紀上よくないと中止にされたが、昭和五十九年に復活された。重厚で調和のとれた屋台である。
文書:「高山の文化財」(高山市教育委員会発行)より
見送り幕 朝鮮の段通(だんつう) |
以下は村山勘四郎による狂獅子 |