屋台の腰(舞台の下)につける彫刻の制作が始まりました。題材は地元を流れる天竜川にちなんだ物語を、上は諏訪湖から下は掛塚湊まで10カ所を揃えてみました。後ろは引き出しがあり取り付けるスペースが少ないため、昔、天竜川を下った帆掛け船とイカダをつけようと考えてみました。
なお、10箇所のうち前側の2カ所はこの地区の特産物を荷車に積んで運んでいる図を入れることにしました。
前に付けられる物 | 裏面です |
こんな具合につけられます | 後ろにつけられるもの |
後ろの裏面です | 全部で12枚あります |
彫りが始まりました。これは長野県辰野町に伝わるいたずらがっぱの物語です。いま、 カッパにだまされた馬が水の中に引き込まれようとしているところです。このあと、カッパが負けて馬は助かります。 | これが左の下絵です。 |
左が彫りあがったカッパと馬の引き合いの様子です。 | |
長野県伊那市に伝わるお話です。天竜川に流れ込む支流の中では、最も大きい三峰川が合流する伊那市。 その流域に暮らす人々にとっての歴史は、度重なる大洪水との闘いであったそうです。水害除けを祈願して大般若経を転 読し経を埋めているところです。 | 完成です。平面的に見えますが、実際は十分に立体感のあるできあがりです。 |
現在も旧磐田郡佐久間町には「豆こぼし」という名のトンネルがあります。その付近の天竜川は非常に 流れが荒く、水面が渦を巻きわき渦が大きな盛り上がりを見せています、この様子が豆を升に盛り切って落ちかかるのと 同じだとして、この名がつけられたとも言われています。 | |
旧浜北市中瀬に八方地蔵と呼ばれるお地蔵さんがある。約300年ほど前の大洪水の時に上流のお寺か ら流れてきて長い間地中に埋もれていたが、ある時見つけられてお祀りすることになった。長い間、地の下に埋もれていた 有難いお地蔵さまに違いない。おまいりしよう」参拝者は四方八方から集まって来た。それで、「八方地蔵さま」と名づけ られたそうです | |
旧天竜市西鹿島の天竜川右岸の椎ケ脇神社は岸壁上の森の中に今も残る。その昔、枝切りをしていた神主 が、手を滑らせてナタを淵に落としてしまう。拾おうとしてのぞき込むと、深い淵中に引き込まれた。目を覚ますと、そこ は竜宮城。乙姫は他言してはならぬとクギを刺し、代わりに「欲しいものは何でも貸そう」と話す。ところが、地上に帰った 神主は約束を破ったため、文字が書けなくなってしまったという。しかし、神主が出会ったのは乙姫ではなく龍神との説も ある。この彫刻は龍神を描いている。 | |
池田の渡船伝説。『元亀3年(1572年)、徳川家康は一言坂の戦いで破れ、数人の家来を連れて池田まで
来たが、元紀州の浪人藪の内善右衛門を見つけて、是非天竜川を渡してくれと頼みました。家康を助けた恩賞として天竜川
渡船の特権を与えられたということです。 下絵と比べ左右が反対になっています。 |
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浜松市河輪地区に伝わる竜の民話です。龍の化身である女性が人間の男性と結婚し、赤ちゃんを産むとき 、部屋に閉じこもって夫に見ないように頼みました。しかし、赤ちゃん見たさに約束を破った夫が見たものは、長い舌で龍 の赤ちゃんをなめてうろこをとり、人間の肌にしている龍の姿でした。自分の姿を見られたことを恥じた龍は、夫に子ども を託し、天竜川に潜っていきました。そして、夫と子どもの身を案じ、洪水を鎮めるよう力を尽くしました。 | |
天竜川の最下流、掛塚が遠州の小江戸と言われ栄華を極めた頃の様子を表したものです。 | |
この地区は以前はサツマイモが特産物でした。そのサツマイモを牛車に乗せて運んでいるところです。 | |
サツマイモと並んでもう一つの特産品は絹を作るための繭でした。この図は年に何回か繭を荷車に載せて製 糸工場まで運んでいく様子を描いたものです。 | |
左の図は昔、陸の交通機関があまり発達していない頃、長野県や磐田郡で伐採された材木をイカダにして川
を下り、下流の浜松市まで運んでいく様子です。今でも下流に材木町という町名があります。 右側は以前まで磐田郡には鉱山があり、そこで採掘された鉱石を下流に運ぶために帆掛け船を使っていました。それを描い たものです。 |
完成は8月16日です。 |